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このメールが肝臓がんの母を救う 12

12: 【笹野 筆】  長井さんと電話で話す 1

長井さんのお母さんが『がん』を告知されたちょうどその頃、
私(笹野)は定期的に受けている血液検査の時期が近づいていたため
末期がん で闘病生活を送っていた病院へ行ってみる事にした。


以前私の担当だった主治医は、大学病院へ戻り、
今度は同じ大学病院から新しく来た医師が私の主治医となる予定だった。

私は当然引き継ぎがあると思い診察を受けるが
今までのカルテや資料だけで、しかも新しい今度の主治医とのみの会話となった。


私は新しい主治医との会話の中で
自分の闘病生活を1から話し始めることとなった。


申し送りも無いようで、私の話しだけで理解してもらえたのだろうか・・・。

内心、いくらか不安を感じていた。


私はこんな事で良いのだろうかとさえ思った。



主治医が代わるという事は患者にとって大きな不安を抱える事になる。

『今度の医師はどんな医師なのだろうか?』

『親身になって話しをしてもらえるのだろうか?』

患者にとってはそんな事が大きな意味を持つ。



この日の診察で私自身感じたのは、『統合医療』を考えて実践している私にとって
西洋医学だけの医師とは何か違和感があったという事だ。


それからは、私は今後の血液検査は別の病院で受ける事にした。


お陰さまでその後、どの病院で血液検査を受けても結果は異常も無く安定している。

そして今は元気だったころのように普通に生活している。


そんな私の姿を見て妻は今でも時々、
「お父さん、本当に元気になったね。」と言って笑ってくれる。


自分でも未だに不思議に思ったりする。

当時、主治医が言っていた
「笹野さん、肝臓がんは良くなっても肝硬変(病状)は治る事はありません。
無理をしないように。」
と言う話しを思い出した。

私自身も知識として1度肝硬変になってしまった肝臓の再生はあり得ないと思っていた。

私はそれすら改善してしまったのである。


『肝臓がん』は治っても、
何をするにしてもすぐに疲れてしまう肝硬変の症状は
仕方がないのかと諦める自分がいた。

その中でもいつの日か、必ず良くなると思う自分もいた。


自分の思い通り動けない事でいらつく事は数えきれない程あった。

それでもあれから2年経ち、辛い時を過ごす中、元気な頃の自分に戻れた。

ごく普通の生活を送る事で時の流れの早さを感じた。


2007年(平成19年)9月も中旬になっていた。

この頃になると妻との会話も自然とキノコの話しで盛り上がる。

気になるのは天気予報だった。

今年は天候不順でなければといつもこの時期考える事は一緒だった。









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