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このメールが肝臓がんの母を救う 17
17: 忘れられない一日 1
私が感じている不安や動揺を、子供は敏感にキャッチするのでしょう・・・、
娘は学校を休みがちになりました。
知らず知らずのうちに、私の心の負担を、娘が背負っているようでした。
そんなある日、笹野さんから電話がありました。
苛立った私の心が、笹野さんの穏やかな声で癒され、
その後、ベッドの中で娘とふたり手を繋いで久し振り笑った記憶があります。
『大好きな祖母を、がん で失うかも知れない。。。』
その恐怖を、娘は声に出せず、ひたすらひとりで耐えていたのです。
私が母の闘病記を語る上で今でも忘れられない1日があります。
2007年(平成19年)9月13日です。
その日は【弟の手術日】でもあり、
【母の県病院での初めての検診日】でもありました。
その日の朝、母は自分の検診に行く前に、息子の手術を心配して
弟が入院する病院へと見舞いに行きました。
その頃の母は、食事も摂れず、足取りも危ういような状態で、
母の股関節からはギシギシと骨がきしむ音が聞こえそうな程痛々しい姿でした。
しかし母は、弟が入院している病院に着くと弟の部屋を目指し歩き始めました。
弟が入院している部屋に着き、弟に会うと母は、
自分が『肝臓がん』と診断され、今から紹介された県病院に行くところだと話しました。
「私がお前の『がん』も貰ったようなものだから、もう大丈夫!」
母はそう言って手術に立ち会えない事を詫び、弟を励ましていました。
また弟は弟で「お互いに頑張ろう!」と言い、
「なってしまった癌は仕方ないから、それよりも頭を治してもらえよ!」と
冗談で母を笑わせていました。
そして弟は
「オレは体力・知力共に人の3倍らしいから、
手術してやっと人並みだって主治医に言われたよ。」
と母を気遣って安心させていたりもしていました。
弟が手術室へ向かう時間と、母が県病院へ向かう時間が迫ってきました。
「もう、ここで・・・。」
そう言っても母は弟の手術室の前まで足を運び、
弟が手術室の中へ姿を消すまでその場を離れようとはしませんでした。
しかし県病院での検診を控えている母は最後には義父に促され、県病院へと向かいました。
母の検診は今回は義父にまかせ、
私は待合室で弟の手術が終わるのを待っていました。
待合室で待っている間、私は亡くなった父に一所懸命訴えていました。
『生きている間、何も父親らしい事しなかったのだから
こんな時こそ父親として息子を助けてよ!』
『好き勝手に生きてきたのだから、その分、お母さんは苦労した。
その罪滅ぼしもしてちょうだい!』
それこそ、《オイオイ、こんな時だけ、父親の存在を思い出すなよ。》と言われそうですが、
私は一生懸命に亡き父に訴えていました。
待合室では落ち着く事が出来ませんでした。
主治医からは開いてみないと腫瘍が良性か悪性か判らないと言われていたので
弟の腫瘍がどうか、【良性】でありますように・・・、
そして、無事に全ての腫瘍が切除出来ますように。。。
ただただ、祈るだけでした。
一方、母の事も気がかりでした。
県病院の医師はどんな診断をして、どんな治療をするのだろう・・・。
母と義父は、ちゃんと医師の話しを聞けるのだろうか・・・。
そして冷静に、正確に医師の診断を理解出来るだろうか・・・。
今後行っていく治療に対しての不安や疑問を正直に素直に医師に問う事が出来るのだろうか・・・。
とにかく早く時間が過ぎて欲しかった。。。
さすがに精神的に辛かった。。。
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